雪が降る前にふと思うことがある

 奇跡は起きるものではなくて人の願いが起こすものだと

だから雪が降る前に

ほんの少しだけ奇跡をかみしめる

 それをしないと

雪のように奇跡が消えてしまいそうだから

 

雪が降る前に

 

灰色の空はずっしりと重く。

風は冷たく鋭く冬の旋律を奏でる。

その旋律に踊るようにいずれ雪が降り出して。

また冬がやってくる。

 職場に向かう前に、ふと空を見上げる。

 灰色の朝空は速すぎる秋の終わりを告げていた。

「冬か……」

 ぽつりと一言。

 日常という牢獄にいると移り変わる季節すら感傷を抱かせなくなってしまう。

 朝起きる。仕事に出る。夕方帰る。その繰り返し。

限られた世界の繰り返し。関係の無い世界など存在がないに等しい。

彼にとっては日常の繰り返しのはずだった。

それが分かったのは一年前。朝から雪が降っていた日だと当事者の友人から聞いた奇跡の話。

「ああ。そうだな……」

 誰に言うつもりも無いつぶやきは白い息と共に空気に溶けていった。

奇跡などあってはならない。

日常に奇跡などあってはならない。

 生徒を日常に導くこと。生徒に正しい選択に導くことが彼――進路指導教授――の仕事なのだから。

 

 

「雪、積もっているよ…」

 その言葉から始まった物語があった。

 灰色の空は重たく、風は身を切るように冷たい。

 初雪も近いのだろう。

 何気なく空を見上げる。

 この瞬間に雪が降ってきたらいいのにと思いながら。

「三年の相沢祐一君。水瀬名雪さん。放課後に進路指導室まで来てください」

 窓を眺めながらの空想が中断されたのは、俺の名前をつげる放送からだった。

「また進路指導か?相沢」

 わざとらしい皮肉を浮かべながら北川が俺の肩をたたく。

 同じようにわざとらしいため息をついて北川に返してやる。

「悪いな。これも幸せ者の特権というやつだ」

「いうなぁ……まぁせいぜいしぼられてこいや」

 そして放課後、日常となった進路相談室訪問は具体的進展を見せずに今日も終わることとなる。

 

「……進路ですか?」

 それがもうすぐ一年になろうとする進路指導との戦いの幕開けだった。

 まだ雪が解けない春先、高校三年生の誰もが避けて通れない進路相談で俺は進路指導の教諭からの集中攻撃を受けた。

 考えてみれば、二年後半での高校編入で両親が転勤族とくれば学校にとって厄介なことの方が多い。

「ああ。相沢の場合は事情が特殊だからな」

放課後の進路指導室で老年教諭と二人で顔を向け合う。

老眼鏡に白銀の髪は老いを感じ、目じりの皺は穏やかなよりきつめな印象を与える。

まとっているオーラは「真面目」だろう。ふと頭にそんな事がよぎる。

「相沢の成績だと地元だとここ。街にでるならこことここだ」

俺にとってさして興味の無い名前と数字の羅列が続く。それは感じたらしく進路指導の教諭は事前に調べたのだろう俺の資料を机において俺を真っ直ぐに見つめる。

「まぁ、偏差値や受験うんぬんはおいとくとしよう。

相沢。お前これからどうするんだ?」

「どうするって?」

「水瀬の事だ。見てみろ」

 差し出された進路指導表を見て俺は脱力して机に倒れこむことしかできなかった。そこにはこうととしか書かれていなかったのだから。

 

「水瀬名雪 進路 相沢祐一のお嫁さん」

 

「名雪のやつ……」

 照れ隠しにでるぶっきらぼうな俺の言葉など老教師は聞いていなかった。

「これが冗談か本気かはこの際置こう。それは生活指導の仕事だ。

だから、進路指導として一言だけ言っておく。

食える職もなくて嫁さんをもらえるほど日常は甘くないぞ」

後になって分かった。それは彼の俺と名雪に対する宣戦布告という事を。

ほぼ春先にかけて毎日、俺と名雪は進路指導室に呼び出された。

手を変え品を変え言う事の背後にあるのは一つの意思しかない。「もっと現実を見ろ」と。

俺はその意思を嗅ぎ取り進路指導教師が納得できそうな「現実」――具体的にはこの近くの大学の進学希望を提示した――を出したわけだが、名雪は頑として「相沢祐一のお嫁さん」を消そうとはしなかった。

生活指導と担任も保護者を呼んで俺達を叩こうとしたが、秋子さんの「了承」によって沈黙させられた。

春も終わり、夏が始まっても秋子さんの「了承」すら気にせず進路指導教師だけは俺達を呼び出しそれも日常になろうとしていた。

秋が始まって、推薦入学や、大学入試が少しずつ俺達に足音として聞こえてきても名雪も進路指導も譲ろうとしなかった。

そして現在。また冬が、高校最後の冬が訪れようとしていた。

 

「分からないでしょうね。きっと男にはね」

 意味深な言葉を投げかけて微笑むのは香里。当然進路は一流国立大推薦合格をさっさと決めている。

「正直分からん。なんで名雪はあの進路指導表を変えないんだ?」

「簡単なことよ」

 秘密たっぷりの笑みで微笑む香里。このあたりよく栞と似ているとふと思ってしまう。

「じゃあ、教えてくれ」

「それぐらい、名雪から聞きなさいよ」

「それができたらとうの昔にやっている」

「というと?」

「百貨屋のイチゴサンデーでも買収できなかった」

 たまりかねたように笑い出す香里。

「そうでしょうねぇ……名雪にとってはイチゴサンデー以上でしょうね……」

 笑い転げる香里を前に、俺は憮然と香里を見つめることしかできなかった。

 

 彼は理解できない。奇跡という言葉を。

 彼は理解できない。彼女が信じた奇跡を。

 彼は理解できない。彼が信じている日常ゆえに。

 彼は理解できない。その日常すら奇跡とおなじくあやふやであるということを。

 だから彼は、時間が残っていないと思い込んでいた彼女に対して最後通牒をつきつけた。

「いいがげんにしろ!」

「いやです!!」

 彼女は理解できない。日常という言葉を。

 彼女は理解できない。彼が繰り返している日常を。

 彼女は理解できない。彼女が信じている奇跡ゆえに。

 彼女は理解できない。その奇跡が永遠に続くならばそれは日常と呼ばれることを。

 だから彼女は、最後通牒を祐一の胸で泣くという行為で拒絶した。

 声を荒げ息を切らす老教師。泣きつづける名雪。そして呆然と成り行きを見守る俺。名雪を抱きしめながら。

「……すまない」

 我に返ったらしく、謝る老教師。名雪はまだ祐一の胸から離れない。

「椅子に座りなさい。もう今日は君達のことを詰問しようとは思わないよ。

 少し、昔話をしよう」

 名雪をなだめながら俺は一緒に席に座る。

 老教師は窓の外に広がる灰色の空を眺めたまま話し出す。

「半世紀以上も昔の話だ。

私にも奇跡を信じる時期があった」

 名雪が反応の言葉に反応したのが分かった。

 老教師は灰色の空を見つめたまま祐一達を見ようともしない。

「戦争に負けることがだんだん実感として分かりだした頃の話だ。

学徒動員といって学生も戦場に送られることになった。

私もそのとき動員されて戦場に行ったよ。多くの友人が異国の土になっていたよ」

 祐一達には情報としてしか知らない事柄。当事者は記憶として忘れられない思い出。

「私にも許婚がいてね。この戦争が終わったら結婚しようと。

戦地に動員される前の事だ」

 俺も名雪も何も言わない。言う言葉を持たない。

「こんな灰色の空の日の事だ。

 この学校で約束したのだ。

 必ず帰ってくるから、ここで待っていてくれとね」

「……その約束はどうなったのですか?」

 名雪の質問に老教師はあっさりと答えを告げた。

「守られる事は無かったよ。

彼女は、私が出征した後から毎日ここで待っていたそうだが、あの丘に向かうときに空襲に巻き込まれたそうだ。

その報を聞いたのは、戦争が終わってやっと戦地から帰った時の事だった」

 何もいえない。

 何も言う資格が無い。

 少なくとも奇跡を手にした者は奇跡を得られなかった者にかける言葉など持ち得ない。それは所詮哀れみでしかない。

「生きるのがやっとの時代だった。

何が間違っていたのか、同じ間違いを犯さない為に、教職についた。

多くの若人を教え、導きながら常にあの果されない約束が胸をえぐった。

そして、私は一つの答えを持った」

 名雪も祐一も老教師の言葉を待った。

「『奇跡を信じなければ、もっと現実を見ていればこんなことにはならなかった』

それが、私の結論だ。

彼女も約束よりも自分の命を大事にして疎開すれば……

そもそも、あの当時国民だれもが負けると分かっていながら奇跡を信じて戦争なんかしていなければ……」

 名雪にも分かったらしい。顔がこわばっている。

「君たちとのつきあいももう一年になるが、それが理由だ。

私は奇跡を信じない。いや、信じきれないのだよ。

水瀬君。相沢君。

たしかに君らは奇跡を見たのだろう。

それが永遠に続くことは絶対にないし、私のように奇跡を信じきれない者には愚考以外の何者でもないのだよ」

それから三人ともしばらく何もいえなかった。

「今日は、もういい。帰りたまえ」

 最後まで老教師は祐一と名雪を見ようとはしなかった。

 

 帰り道、重苦しい雰囲気で歩く俺と名雪。

「ねぇ」

「何だ?名雪?」

「……なんでもないよ」

 何度目だろう、この繰り返しは。

 何を名雪が言いたいのか俺は分かっていた。

 分かっていたけど、その答えを俺は言うことはできなかった。

 「俺と先生とは違う」そういってやりたかった。

 「俺は絶対名雪のそばに居るよ」そういってやりたかった。

 今はそれが言えない。

 彼の姿は祐一にもあった可能性がある未来だったのだから。

 そしてこれから先にも起こりうる可能性があるのだから。

 奇跡を望んで得られた者と得られなかった者の差はなんだったのだろう?

「うぐぅぅぅ〜〜〜〜〜!!!どいてどいてどいてぇぇぇえ!!!」

 そんな憂鬱な二人だから、いつもならかわせるあゆの特攻にぶつかってこけてたい焼屋の親父に一緒になってしかられる羽目となった

「うくぅ……ごめんなさい。それとお金立て替えてくれてありがとう」

「ごめんで済むなら警察はいらんわ。

まぁ、たい焼屋のおやじも許してくれたからよしとしよう」

「うぐっ。

ところで、二人ともどうしたの?

なんか、凄く悲しい顔をしているけど?」

「なっ!なんでもないよ。あゆちゃん」

 こういう時のあゆは鋭い。慌てて名雪が言い訳するがその慌て具合がまた墓穴を掘っているあたりさすが名雪といったことだろう。

「実はな。あゆ……」

 俺は老教師とのやりとりを前部あゆに話してやった。

 あゆは、名雪の進路「相沢祐一のお嫁さん」に激しく動揺し憤慨したけど、話し終わった後ににっこり笑ってこう言ってのけた。

「簡単だよ。そんなの」

「簡単?」

「簡単……なの?」

「うん♪だって祐一くんは魔法使いなんだよ。

なんだってできるじゃない♪」

 凄く簡単で、凄く当たり前の言葉。

 あゆにとっては、絶対のそして当たり前の真実。彼女は奇跡によってここにいるのだから。

「ふっ…わっははははははは……」

 たまらずに祐一は笑い出した。おかしくて涙が止まらない。

「祐一?」

「祐一くん?」

 そう。凄く簡単なことじゃないか。

「名雪、あゆ」

 はっきりと名前を呼ぶ。

「約束するよ。俺は絶対にお前達の前から消えたりはしない」

 名雪の顔がみるみる明るくなる。

「うん♪私も絶対に祐一の側から離れたりしないよっ♪」

「うぐぅ!あゆだってぇ祐一くんから離れたりしないもん!!」

 三人で笑い出す。

 何で思い出せなかったのだろう。

 奇跡は起きるものではなく、人の願いが起こすものだということに。

「お」

「わぁ」

「初雪だぁ」

 まるで正解を出した祐一に対するご褒美のように空から降ってきた雪を三人は見上げたまま笑っていた。

 それも、奇跡であり三人が起こしたという認識なども無く……

 

「雪か……」

 靴箱から靴を取り出して校舎を出るとちらちらと初雪が降り出していた。

 何も変わらない。せいぜい空から雪が降ってきたまでのこと。

 ふと立ち止まる。あの二人に昔話を語ったからだろうか。気にもしない雪なのに何かがひっかかる。

「そうだったな……約束した時も雪が降っていたな……」

 しばらく空を見上げる。感傷的になっている自分がわかる。

あの時、自分にも奇跡が起こせたらと心の奥底で後悔しつづけた。

ほんの少しでもいい。無償に彼女に会いたかった。

会って約束を果したかった。

 後悔しかしなかった彼がはじめて望んだ奇跡への願いは簡単に果された。

「まさか」

 ありえない。彼女は死んだはずだ。

「まさか」

 ありえない。ならば彼の目の前に立っているのは誰だ?

「会いたかった」

 待ち望んでいた言葉。幾度となく聞きたかった言葉。

「ああ。そうか。これを奇跡というのか……」

 ぽつりと呟いた言葉。目から何十年ぶりの流れる涙。

「私も会いたかった。待たせてすまなかった……」

 ただそれだけ。それだけを望んで後悔しつづけたのだ。

 ゆっくりと彼女の姿は消えてゆく。

 彼の望みは果されたのだから。

「私の先は短い。だからもう少し待っていてくれ。

私がそっちに行ったら残りの約束を果そう……」

 もう彼女の姿は見えなかったけど、彼には彼女が微笑んでくれたような気がした。

 

「三年の相沢祐一君。水瀬名雪さん。放課後に進路指導室まで来てください」

 窓の向こうで舞う雪を眺めていたら、俺の名前をつげる放送からだった。

「また進路指導か?相沢」

「しつこいわね。あの先生も」

 わざとらしい皮肉と苦笑を浮かべながら北川と香里が俺の肩をたたく。

 同じようにわざとらしいため息をついて二人に返してやる。

「悪いな。これも幸せ者の特権というやつだ」

「いうなぁ……まぁせいぜいしぼられてこいや」

「ああ。あつい。あつい。さっさと行ってきなさいよ」

「行くぞ!名雪!」

「うん!!」

 思いっきり大きな声を出して俺は名雪と一緒に進路指導質の扉を開ける。

 だが、二人は全く違う展開に戸惑う事になる。

 老教師の「私も奇跡を信じてみる気になった」という一言によって。

 そして、二人の進路指導室詣では今日が最後になった。

 

 

 雪が降る前にふと思うことがある

 奇跡は起きるものではなくて人の願いが起こすものだと

だから雪が降る前にいつも願う

この奇跡がずっと続くようにと

 それを願いつづける限り

 奇跡は永遠に続くと信じているから

 

 

 あとがきみたいなもの

 「奇跡を得られる人の資格は?」と考えて作ったのがこのSS。

 べたなオチだと思うけど、実際、そのベタな展開を望まないから奇跡とは起きないのだと思ったりして。

 高校三年生の名雪と祐一だけど、所詮一年年を取っただけで何も変わらないという事を実感。